2012年カンボジアスタディツアー

愛センター

アンコールワット

1.スタディツアーの経緯

 ストリートチルドレン芸術祭スタディツアーは、2008年モンゴル、2009年カンボジア、2010年バングラデシュおよびインド・ダラムサラと3年間におよび実施され、多大な成果を収めてきた。当地における寄付金贈呈、交流といった直接の金銭的・精神的支援は言うに及ばず、ツアーを経験してきた学生たちに対する教育的効果は絶大であった。学生たちの普段の学習意欲は格段に向上し、自ら進んで学ぼうとする姿勢が顕著に見られるようになった。
 2011年3月11日に発生した東日本大震災により、昨年度はツアーを実現することができなかったが、本年度はカンボジア王国の首都プノンペンでフリースクールを主催する渡辺藍さんにコーディネーターとして協力を得ながら、2回目となるカンボジアスタディツアーを実施することができた。
 2012年度ストリートチルドレン芸術祭スタディツアーは、主としてプノンペン市内で路上生活を余儀なくされている子どもたちの実態を調査することを目的とした。今回は渡辺藍さんのフリースクール「愛センター」を訪問し、子どもたちと共に遊んだり、さらに今後チャリティカレンダーに採用するための絵を子どもたちと一緒に描いたりと積極的な活動を展開し、ストリートチルドレン芸術祭で得た収益からの寄付金を贈呈した。さらには青空教室の現場に赴き、郊外で苦しい生活を送っている貧困層の居住地を訪れる等、活発に活動した。
 他にも、世界遺産アンコールワットを訪問するなど、カンボジアの風土や文化に触れる機会を多く得ることができた。こうした体験を通じて、日本との違い、その土地の人々の暮らし等、様々なことを実際に感じ学ぶことが本ツアーの主旨であった。

子どもたちが描いてくれた絵

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2.参加者

■ ストリートチルドレン芸術祭(11名)

参加者 ・生田目 学文 准教授
・東北福祉大学4年生 4名
 (阿部・堀江・須藤・木暮)
・東北福祉大学3年生 4名
 (滝口・岩崎・清野・佐藤)
・東北福祉大学2年生 1名
 (石山)
・東北福祉大学1年生 1名
 (樋口)








3.活動日程・内容

12月20日(木)1日目

都市名 時間 交通 日程
仙台

仁川
プノンペン

13:30
16:00
19:10
22:50


OZ151
OZ739
専用車

■仙台空港出発2時間前集合
■仙台-仁川
■乗り継ぎ、仁川-プノンペン
■プノンペン着、通関後、専用車にてホテルへ
※渡辺藍さん(コーディネーター)同行(~12/28)

12月21日(金)2日目

都市名 時間 交通 日程
プノンペン








専用車








■朝食後、プノンペン市内の観光
(1)王宮・銀寺・国立博物館・ワットプノンムなど
(2)セントラル・マーケット:お土産などの買い物
■昼食後、負の歴史を学ぶ
(1)ツールスレン博物館(ポルポト政権時代の刑務所)
■カンボジアメコン大学日本語学科との交流

12月22日(土)3日目

都市名 時間 交通 日程
プノンペン







専用車







■朝食後、負の歴史を学ぶ(つづき)
(2)キリングフィールド
■『愛センター』訪問
(1)ストリートチルドレン芸術祭から寄付贈呈
(2)フィールドワークC研究調査
(3)子どもたちから絵の授受
(4)交流会:よさこい、ゲーム、日本語教室など
■カンボジアメコン大学日本語学科との交流

12月23日(日)4日目

都市名 時間 交通 日程
プノンペン




16:00-
16:45



専用車


K6109
専用車
■朝食後、『愛センター』訪問
(1)クリスマスパーティ参加
(2)青空教室見学
■夕方、移動

12月24日(月)5日目

都市名 時間 交通 日程
シェムリアップ







専用車



■朝食後、アンコール遺跡群の観光
(午前)アンコールトム/タ・プロム寺院観光
(午後)アンコールワット/プレ・ループ(夕日)観光

12月25日(火)6日目

都市名 時間 交通 日程
シェムリアップ




専用車




■朝食後、観光
(午前)オールド・マーケット/シェムリアップ市内散策
(午後)地雷博物館/国立博物館見学
■移動:IKTT伝統の森へ

12月26日(水)7日目

都市名 時間 交通 日程
シェムリアップ





専用車



■伝統の森
(1)染物体験
(2)交流会:よさこい、日本語、クメール語交換授業など

12月27日(木)8日目

都市名 時間 交通 日程
シェムリアップ











23:40-
07:00
専用車





OZ738
■朝食後、観光
(午前)バンテアィ・スレイ寺院/シェムリアップ市内散策
(午後)トンレサップ湖観光
■夕食時、民族伝統舞踊アプサラ鑑賞
■移動:シェムリアップ空港へ
■夜、空路仁川を乗り継ぎ、帰国の途へ

12月28日(金)9日目

都市名 時間 交通 日程
仁川
仙台
10:20-
12:30
OZ152

■仁川着
■仙台空港着・解散

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4-1.調査報告 「カンボジアの文化・歴史① "プノンペン市内"」

2012/12/21(金)<2日目>

カンボジアの王宮と仏舎利塔 王宮 (ウェアン)
 トンレサップ川沿いに建つ黄金色の宮殿である。1866年にノロドム王が当時の首都ウドンからプノンペンに遷都したときに木造の建造物として築いた。1919年シソワット王の時代にフランス人建築家によって現在のスタイルに再建された。1991年11月に前国王のシアヌーク殿下が帰還し、現在はシハモニ国王と王妃の公務と住居になっている。中央の即位殿は「天」と繋がる三角窓と高さ59mの小塔と黄色い屋根が印象的なホールでは、戴冠式や国王誕生日など重要な王室行事が執り行われる。黄色は仏教、白はヒンドゥー教を表している。周辺にはアプサラ劇場、象のテラス、1873年にフランスのナポレオン3世からノロドム王に贈られた建造物などがある。
 ナポレオンの館は1869年にスエズ運河開通記念式典の際にナポレオン3世の奥方が使用するために建設された。竣工から一年足らずでナポレオンが失脚したため、イングランドに亡命中のナポレオンからカンボジアの王へ贈り物として譲り渡されることになり、解体されて輸送され現地で改めて組み立てられた。鋳鉄には施されたナポレオンを意味するNの文字が施されている。

銀寺 (シルバーパゴダ)
 1892年から1902年にかけてノロドム王の治世下に木材とレンガで創設された。1962年大理石とテラスの現在のスタイルに再建された。床には1枚約1㎏の銀のタイルが5320枚敷き詰められていることから〝銀寺″と呼ばれ、王室の仏教行事が行われてきた場所である。正式名称は「ウォアット・プレアハ・カエウ・モロコット(エメラルドの仏の寺院)」である。周壁には642メートルに亘る「ラーマヤナ」の壁画が描かれている。内部には90kgの純金、額・胸・手のひらに2086個のダイアモンドがちりばめられ、1904年シソワット王から頂いた仏像が中央にある。白い仏塔は、スラマリット王のストゥーパである。ストゥーパとはインドが起源のお墓のことで、日本の「卒塔婆(そとば)」のもとになっている。

国立博物館 (サラモンティー・チアット)
 1905年にアルベール・サロウ博物館として開設された。外観は勇気を表す赤とクメール様式が用いられている。アンコール遺跡から発見された彫刻を中心に、国宝級の彫刻が展示されている。7世紀から13世紀のクメール王国時代の美術品を中心に約5千点を収蔵されており“8本の腕をもつヴィシュヌ神”や“瞑想するジャヤバルマン7世像”など、歴史的価値の高い芸術を堪能することができる。展示物は年代順に並べられており、彫刻が精密であることから12~13世紀のジャヤバルマン7世の頃がカンボジア文化の最盛期だということがわかる。

ヒンドゥー教の神々: シヴァ神・・・ 破壊の神。破壊により恩恵がもたらされるとされている。
乗り物はナンディン・・・乳白の牡牛。
ヴィシュヌ・・・ 世界を支配・維持する役割を担い、4本の腕を持つ。
乗り物はガルダ・・・聖鳥。日本の天狗のルーツと言われている。
ブラフマー・・・世界の創造神。人々を救済する役割がない。
乗り物はハンサ・・・聖鳥。
ガネーシャ・・・商業と学業の神。シヴァとパールヴァティーの息子。
乗り物はネズミ。

ワット・プノン (ウォアット・プノム)
ワット・プノン  伝説によると1372年ペンという裕福な夫人がいた。ある日、夫人はメコン川の岸に流れ着いた流木の中に仏像が隠されているのを見つけ、近くの丘に寺を建立してその仏像を祀った。その丘は信心深い夫人にちなんで「ペン夫人の丘」、「プノンペン」と呼ばれ、その寺が現在のワット・プノンである。その後何度も再建され、現在のスタイルは1927年にできたものである。今もこの丘にあり、鐘型仏塔やペン夫人の像を祀った小さな祠や階段の手すりにはナーガと呼ばれる大蛇の彫刻がある。またこの丘からは市内を一望のもとに眺められる。










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4-2.調査報告 「カンボジアの文化・歴史② "ツールスレン博物館"」

2012/12/21(金)<2日目>

 ツールスレンはもともとポニェ・ヤートという名の高校だった。その後ツールスワイプレイ(野生マンゴーの丘の意)という名に変えられ、クメール・ルージュによるプノンペンの「解放」後には主に党(カンプチア共産党)の内部の敵を探し出して「滅」するための情報を引き出す秘密の尋問センターとなった。施設は暗号名でS21と呼ばれたが、この名を示す表示はどこにもなかったという。S21が現在のようにツールスレンと呼ばれるようになったのはベトナムが侵攻してクメール・ルージュをプノンペンから追い出した後の1980年、ベトナムによって整備されて博物館となってからである。ツールスレン収容所では、ポルポト政権時代1975年から1979年の「3年8か月と20日間」に約200万人が収容されたと言われる。

<ポルポト政権時代>  1976年5月13日に、ポルポトは民主カンプチアの首相に正式に就任し、地方で大粛清を始め、徹底的な国家の改造を行った。ポルポトが目指したのは中国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、資本主義の要素を全て否定することであった。
 自らの政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧した。プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティとなり、医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され殺害された。始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去った。自己申告者以外にも、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、頭髪の薄い者、手にまめがなく掌が軟らかい者など、少しでも学識がありそうな者はすべて収容所に送られ殺害された。また、それらの家族からの反撃も恐れ、知識人と思われる者の家族までも収容所に送られるようになった。

 ツールスレンの順路はA棟からB棟へと続いている。ツールスレンの入口から見て正面の二棟のうち、向かって左側がB棟である。その右隣はC棟と呼ばれている。どちらもかつては高校の教室であった。A棟沿いの庭には、当時の収容者に向け刑務所所長のハッチが作った、施設内での10の規則が書かれた掲示板があった。(以下日本語訳)

1.質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
2.何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
3.革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
4.質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
5.自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
6.電流を受けている間は一切叫ばないこと。
7.何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
8.自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
9.これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
10.これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。

ツールスレン博物館・A棟  ツールスレン博物館・B棟
A棟                       B棟

 A棟はポルポト幹部や知識人などの偉い人向けの独房である。部屋の奥には1つの窓があり、1つのベッドが置かれている。壁には、その部屋で犠牲者が発見された現状を示す写真がかかっている。この施設が発見された1979年1月8日にベトナム軍のカメラマンによって撮影されたものだ。
 B・C・D棟は一般人向けの独房である。A棟とは違い、教室を約0,8×2mの大きさごとに煉瓦で区切られ、2人ずつ収容された。トイレはなく、代わりに弾薬箱が使われた。
 多くの収容者は、2、3か月ツールスレンで強制労働と拷問を受けた後、処刑所となるキリングフィールドに連れ去られ殺されたと言われている。

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4-3.調査報告 「カンボジアの文化・歴史③ "キリングフィールド"」

2012/12/22(土)<3日目>

 キリングフィールドとは、1975年~1979年のポルポト政権時代においての処刑場である。プノンペンから約15キロ南西にある。ツールスレンに収容された人たちが、拷問や生活などに耐えきれなくて自白すると、キリングフィールドに運ばれ、処刑された。
キリングフィールド  キリングフィールドの敷地内に入ってすぐに、大きな塔のようなものが目に入る。これは慰霊塔で、窓から8985個の頭蓋骨と、ぼろぼろの服を見ることができた。頭蓋骨には拷問や処刑の跡と思われる損傷が数多くみられ、ポルポトによる虐殺の残酷さを感じることができた。ポルポトが政権に就いた当時、プノンペンに住んでいた人々はベトナムの影響から解放され喜び、ポルポトを迎え入れた。しかし市民を待っていたのは絶望だった。田舎への移動を強制され、これは「死の行進」と呼ばれた。子どもも病人も全て歩いて移動させられたため、途中で命を落とす者もいた。2か月ほど同じ服を着て働き、働いてもドッグフードのようなご飯が、両手の中に少しもらえるだけだった。その何か月も着た服のまま収容され、処刑され、その時の服が慰霊塔の中に保管されていた。
 もともとこの場所は静かな墓地だった。ポルポトは処刑時の音が漏れないようにこの場所を選んだという。また近隣の村人にばれないように、時間帯も夜暗くなってから朝の3時頃までと、限定されて処刑が行われていた。囚人たちは1時間かけてトラックで連れて来られ、1人ずつ降りてすぐに殺された。次第に囚人の数が多くなり、1日から2日泊らせることもあった。また、ポルポト政権の終わりごろ、疑心暗鬼に陥ったポルポトにより、政党幹部や仲間にまで処刑の手は及んだ。
 慰霊塔の周りを大きく一周するように見学ルートがある。自然豊かなその場所は、埋められた遺体を掘り返した際の穴ででこぼこしていた。見学ルートの途中に、当時外部から電気を持ってきて使われていたオフィス、毒の粉が保管してある部屋、処刑用の武器が置いてある部屋など、当時使われていた部屋を示す看板が立っていた。毒の粉は処刑用ではなく、処刑した人を穴に埋める際に使用されていた。理由としては2つあり、処刑後のまだ息のある人を完全に殺すため、においを出さないためだったという。武器庫には銃も保管されていたが、逃走する者や身分の高い者を殺すとき以外、基本的には使われなかった。大きな音が出る、銃弾が高価、という理由からである。代わりにサトウヤシの木の枝で首を切ったり、子どもの足を持って木の幹に叩きつけたりという、音が出ずお金もかからない方法がとられた。サトウヤシとはカンボジアの国の木で、キリングフィールド内にもたくさんあり、さまざまなものに加工できる。現在でも田舎の人たちの収入源であるが、その葉はのこぎりのようにぎざぎざしており、恐ろしい木にしか見えなかった。
 遺体を掘り出した跡はいくつか柵で囲まれ、残されたままになっていた。166名もの頭のない遺体が発見された跡、キリングフィールドで最も多い450人が発見された跡、女性と子どもが埋められていた跡などがあり、柵に祈りのミサンガのようなものが数多く巻かれていた。ほとんどの遺体は裸の状態で埋められていた。埋める前に脱がせ、使えるものは他の人に与えるためである。主に汚れの目立たない黒いシャツが再利用された。私たちを案内してくれたガイドさんの友人も、ポルポトから血のついたシャツをもらったことがあったという。本当はいらなかったが、「いらない」というと殺されてしまうため、「うれしいです」と受け取った、というエピソードを伺った。ルートのさらに奥にはキリングツリーと呼ばれる太い木がある。この木は、小さい子どもを、足を持って叩きつけて殺すために使われていた。ここにもたくさんのミサンガが吊るされていた。その奥にはマジックツリーと呼ばれる、枝が広範囲に広がる木が立っていた。この木は、外に悲鳴が漏れないように、木の上にスピーカーを置いて音を流すために使われていた。不思議に思ったり間違ったりして、キリングフィールド内に入って来てしまった人は、残らず殺されたと言う。
 見学ルートを一周し、最後に入り口近くにあるミュージアムに入った。「死の進行」で通ったルートや、当時の写真、処刑に使われた道具などが展示されていた。隣の部屋では映像資料も上映されていたようだったが、残念ながら時間がなくて見ることはできなかった。前日のツールスレンと比較すると、ツールスレンは物騒な印象を受けたのに対し、キリングフィールドは鎮まり返った印象だった。ただ、その分残酷な歴史とのギャップが大きかった。どのような時代になっても、このようなことは繰り返してはいけないと改めて強く感じた。

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4-4.調査報告 「愛センター "子どもたちについて"」

2012/12/22(土)<3日目>

・愛センター、主な活動
 カンボジアの恵まれない子どもたちにクメール語、算数、理科、英語、日本語の教育を行っている。教育を受けることができないことで、将来の夢を諦めてしまう子どもを減らし、子どもたちの将来の可能性を広げていく。

・愛センターへ行く前
 私はカンボジアの子どもと聞くと、貧困国でありストリートチルドレンが多いという印象であった。また、貧困地区での子どもたちの教育を聞いた際、内容の中に水浴びの習慣、手洗いの勉強、ゴミ捨てなどがあげられ、とても衝撃的だった。日本では自然と身に付いていた生活習慣が、カンボジアでは教育の取り組み内容となっていた。そして実際にカンボジアへ行き、物売りをする子どもや夜遅くまで外で作業をする子どもを見た時は、目を疑った。自分より小さな子どもが必至に働く姿に対し、何もしてあげられない自分に悲しくもなった。
 このような印象や場面を目にした私は、愛センターへ行くまで、子どもたちへの印象はどちらかというと暗いものであった。子どもたちにどう接すればよいのか、言葉も通じない、文化も環境も違う子どもたちにどうすればよいのか不安でいっぱいだった。

・いざ、愛センターへ
 どんなところなのだろうと、緊張しながら愛センターへ向かった。そして、一瞬にして不安だった子どもたちへの暗い印象は吹き飛ばされた。たくさんの子どもたちが笑顔で出迎えてくれ、自然と私も笑顔になれた。どの子どもたちも明るく、初めて会ったとは思えないくらい親しみを持って接してくれたので、すぐに打ち解けることができ、日本の子どもと何の変わりはないのだと感じた。子どもたちそれぞれの家庭状況は分からないが、服装や身なり、雰囲気から貧困層という印象は薄れていった。ましてや、アクセサリーを身につけオシャレをしている女の子も多かった。
 子どもたちとは、簡単な英語やクメール語、ジェスチャーや表情でコミュニケーションをとった。子どもが一生懸命、英語やクメール語で何かを伝えようとしてくれたことがあったが、私が勉強不足だったため理解できず言葉の壁を感じた場面もあった。しかし、言葉以外に壁を感じることは全くなく、子どもたち自ら積極的に関わってくれることが多いと感じた。
 また、日本の遊びを知っている子も多く手遊びやリズムゲームなどすごく楽しそうに遊んでいた。新たに簡単な日本語や歌を教えてあげると喜んで覚え、繰り返し話していることもあった。日本に対する意識が高く、親しみを持って接してくる子どもたちはとても温かく雰囲気が良かった。この雰囲気から子どもたち自身、愛センターに通うことが楽しみになっているのではないかと感じた。
 愛センターには、2日間しか行けなかったが、その間、とても懐いてくれた女の子がいた。どこへ行くにも着いてきて、離れようとしない姿がとても可愛く、日本に連れて帰りたいくらいだった。クメール語で絵本を読んでくれ、簡単な言葉も教えてくれた。言葉は違えどもここまで子どもたちと打ち解けることができ、とても驚いたとともに嬉しかった。
 最終日、別れ際も多くの子どもたちが名残惜しんでくれ、最後までずっと手を振ってくれた。私たちもなかなか別れることができなかった。

愛センターの子どもたち  愛センターへ行くまでと行った後での子どもたちへの印象が180度変わった。初めての海外で、言葉も分からない不安な状況で自分が子どもと楽しく遊ぶことができるのか心配であったが、愛センター全体が温かい雰囲気で安心した。
 ここで子どもたちは勉強し、学び、知識を得ている。このような環境がより増え、働くことより、まず教育を受けるという意識に変わっていけばよいと素直に感じた。これは、子どもたちだけでなく、大人にも教育に対する知識が必要である。また、自分自身、貧困国に対する知識や姿勢が浅く何もわかっていないのだと痛感した。簡単なことでも、言葉やその国の知識など、まずできることから一歩一歩身につけ、いずれは支援に参加できるようになりたいと感じた。

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4-5.調査報告 「愛センター "1日目"」

2012/12/22(土)<3日目>

 私はカンボジアで子どもたちに会えること、そして絵を描いてもらえることがとても楽しみでしかたなかった。12月22日(土)愛センターを訪問。カンボジアに行く以前、講義で藍さんと初めてお会いした。その講義の際聞いたお話は良くも悪くもカンボジアのリアルな現状だった。子ども達はどんな勉強をして、どんな勉強が好きか、教育の質はどうなのか、どんな表情をしているのかを私は知りたくなった。
 愛センターを訪問するとまず「こんにちは」というあいさつが飛び交った。すぐ昼食の時間となった。昼食はカンボジア風のカレーであった。カレーに麺を入れたり、パンを浸して食べたりと独特の食べ方であった。アクセントに子ども達からキュウリをすすめられた。カレーは味もとてもおいしかったが子ども達が食べ方を一生懸命教えてくれたことがとても嬉しく、とても楽しい昼食となった。
 昼食後は子ども達と各々遊ぶ時間となった。やはり人気だったのは、サッカーやバレーボールといった球技だったが、福祉大メンバーが持ち寄った玩具も人気を博した。シャボン玉やフラフープは子ども達の前に出すとあっという間に人だかりとなった。その際驚いたのはフラフープの使い方だ。腹部のまわりで回すだけでなく、転がし、それを飛び越えるという遊びがとても流行った。遊び方の幅を広げ、子どもたちに提案することができたのが良かったと感じる。しばらくしてみると転がしたフラフープをくぐるというアレンジも子どもたちの中からあみだされていて、とても驚きであった。遊び方というのは、無限なのだということ、国は違っていても子ども達の遊ぶ能力の高さを改めて感じた。
愛センターの子どもたち 愛センターの子どもたち  ストリートチルドレン芸術祭としての目的である、絵を描いてもらうということも実現した。前日に福祉大メンバーのミーティングで『夢』というテーマで描いてもらうことに決まっていた。似通った絵になってしまうかなと思っていたが、いざ描きだすと、予想以上に子ども達それぞれ自分の個性を出していてどれもすてきな絵ばかりであった。将来の夢は警察官、消防士、先生、医者、科学者になることなど様々であった。夢というものが日本と同じように子どもたちが自由に持てているということがとても嬉しかった。熱心な指導に応えてくれる子も多く、クレヨンをこする技術を習得し、嬉しそうに自分の作品を自慢してくる子の顔は、私まで笑顔にさせてもらった。これまで芸術祭の一員として2012年、2013年のカレンダー制作に関わってきたが、子どもたちが絵を描いている隣で寄り添い、どんな気持ちでこの絵を描いたのかというのを実際に聞くことができたのは初めての体験であった。自分たちの手で集めることができたのは自信と大きな経験となったように思う。
 愛センターで盛り上がったイベントはダンスであった。よさこいやカンナムスタイルでの盛り上がりは忘れることができない。子どもたちのパワフルさには圧倒された。結婚式でも感じたが、カンボジア人はこんなにも愉快な人たちなんだな、と負の歴史のイメージが強かったカンボジアという国の見方が少し変わったように思う。
 愛センターでは低学年との関わりが主だったが、私は15歳くらいの女の子たち4人とも話す機会があった。趣味や日本のこと、恋の話などをした。話すことが大好きだと様々な話をふってくれたり、質問されたりした。やはり日本人と変わらず、女子らしく恋の話はとても盛り上がった。私がもう少し英語ができればととても反省したが、彼女たちと話すこともとてもいい経験となり、楽しい時間であった。
子どもたち別れの時、わたしは泣いてしまった。泣いてはいけない場面であったと思うが、2日間を通してとても懐いてくれた男の子にハグされ、「さよなら」と言われた時はとても寂しかった。今回の愛センターの訪問を私は一生忘れない。しかし子どもたちはどうだろうと考えるととても切なかった。しかし日本に帰ってきて振り返って思うことは、「日本人がいっぱい来ていたな」など、なんとなくでも私たちのことを思い出にしてほしいなということ、日本人を好きになってもらいたいということ、いつまでも夢をもっていてほしいということだ。欲張りかもしれないが、それが子ども達に対する今の私の想いだ。
 今回の訪問でカンボジアの子どもたちのすべてを知ることができたわけではない。やはり街中では物乞いをする子、スラム街で生活する子などもっと貧しい生活を強いられている子どもたちが大勢いることも今回のカンボジアスタディツアーで知った。ストリートチルドレン芸術祭として私達の支援をどこにすべきなのかということは問題なのかもしれない。だが、愛センターを訪問して、絵に描いたような夢をもつ子ども達がいるのなら、その夢が少しでも叶うよう、教育の質を高めるために支援は続けたいと思った。

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4-6.調査報告 「愛センター "2日目 〜クリスマス会~"」

2012/12/23(日)<4日目>

午前  自由遊び・芸術祭カレンダーの絵描き
<昼食>
午後  みんなでじゃんけん列車ゲーム・寄付金贈呈式・子どもたちへのプレゼント

 クリスマス会をするということでたくさんの子どもたちが集まっていた。子どもたちはとても人懐こく元気すぎるくらいで、すぐに学生たちを遊びに誘っていた。2日目ということで学生と子どもたちの距離がずっと近づいているのを感じた。
愛センターの子どもたち  午前中は1階で子どもたちと遊ぶグループと2階で芸術祭のカレンダーの絵を描いてもらうグループに分かれて活動した。1階では子どもが日本の手遊び(アルプス一万尺など)や「あんたがたどこさ」の歌にのせてステップを踏む遊びに夢中になっていた。ひとりの学生に何人もの子供たちが列をつくって並び、もう1回、もう1回と楽しそうに遊んでいた。2階では、前日に続いて「将来の夢」「自分の好きな遊び」をテーマに絵を描いてもらった。
 学生が子どもたちに描き方を教え、アドバイスをすると、子どもたちはそれを素直に受け入れ、とても上手な絵を描いてくれた。それから、どういう気持ちでその絵を描いたのかを一人ひとりに聞くことが出来た。私の下手なインタビューに恥ずかしそうに、でも真剣に考えながら答えてくれる子どもたちはとても可愛らしかった。
愛センターの子どもたち  昼食は前日からスタッフや子どもたちが準備していたという、おいしい食事をごちそうになった。午後は私たち学生の主動でじゃんけん列車ゲームを行った。ゲームはルール説明から始まったが、上手く子どもたちに伝わらず本来のルールとは若干異なったが、子どもたちが盛り上がってくれたのでよかった。ゲーム中の子どもたちの喜々とした表情はとても印象的だった。最後に、ストリートチルドレン芸術祭から愛センターへの寄付金贈呈式と子どもたちへ消しゴムとお菓子のプレゼントをして終わった。
 こうして、芸術祭の支援先である愛センターを訪問し、こどもたちと関われたことは芸術祭の活動にとって、とても大きな体験だったと思う。これからの活動がよりいいものになるひとつのきっかけとなったでしょう。





愛センターの子どもたち





















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4-7.調査報告 「カンボジアの文化・歴史④ "アンコール遺跡群"」

2012/12/24(月)<5日目>

1.アンコールトム(大きな都)
 一辺3キロメートルの正方形で、高さ7メートルの城壁に囲まれている。周囲12キロメートルの城壁内には十字に主要道路が配置され、その中央にバイヨン寺院がある。そこから少し北上したところに王宮があり、象のテラス・ライ王のテラスが門になっている。アンコールトムには5つの門があり、北の土鍋の門、南の南大門、西の処刑の門、東の死者の門(軍隊が負けた時に通る)・勝利の門(軍隊が勝った時に通る)と呼ばれている。この時代ではラッキーナンバーが奇数であり、ここでは23である。

①南大門
 …この両脇には左側に神々の像、右側に阿修羅の像が並んでいる。阿修羅の像は目つきが鋭く、怖い顔をしており、恐怖を覚えた。門の上には東西南北に顔がある像があり、4つの美徳(憐れみ、情け、平等、慈悲)を表している。中には修復されて色が違う像も多くあり、観察すると種類が豊富だった。
②バイヨン寺院(宇宙の中心)
クメール人  …12世紀末にジャヤバルマン7世が作ったとされ、穏やかな微笑みをたたえた観世音菩薩のモチーフで有名な仏教の寺院である。この中央塔の高さは45メートルあり、地面は彫刻が彫れるように柔らかい石を使用し、遺跡の土台は彫刻を彫れないラテライトの石を使用している。ここの石には石を運ぶために棒を刺す穴が開いており、象を使っていかだで運んでいたそうだ。昔の人はすごいと寺院を見ながら、強く感じた。特に彫刻が一つ一つ細かくて、繊細な技術に感激したし、神秘的な雰囲気がとても落ち着いた。
この寺院には第一回廊と第二回廊がある。
・第一回廊
 …東西約160メートル、南北約140メートルに壁画が及んでおり(壁と柱)、12世紀の人々の生活模様が多数描かれている。
ここのレリーフはチャンパ(ベトナム中部にあった国)とカンボジアの戦争の様子を描いている。
ヘルメットをかぶっている人物…中国人。一般の人は鎧をつけていない。
なお、第一回廊は日本のODAで修復している部分もある。
・中央堂
 …仏様がおり、祈るところ。
※この仏様は200リエル札に描かれている。

③バプーオン(隠し子)遺跡
 …ウダヤーディティヤヴァルマン二世が建てた遺跡。
・隠し子の伝説
 …シャム(タイ)の王とカンボジアの王は兄弟であった。ある日、シャムの王がカンボジアの王に子どもを預けたところ、これはシャムの王の戦略で、将来的にシャムの王子にこの国を奪われてしまうと恐れた王が、シャムの王子を殺してしまい、怒ったシャムの王に自分たちの子どもを殺されないようにするためにこの寺院に隠したことが、この寺院の由来となっている。

2.タ・プロム寺院
タ・プロム寺院  ジャジャヴァルマン七世が母のために建てたと言われ、のちにヒンドゥー教の寺院になったと言われる。
・ローソクの木(シダ)…カンボジアの家づくりのために使われている。
巨大に成長したスポアン(榕樹)の木の根に遺跡がおしつぶされながらも、かろうじて残っている自然の脅威を強く感じられる遺跡で、生きる強さを感じた。




3.アンコールワット
アンコールワット 建設者:スールヤヴァルマン二世
創設年代:12世紀初頭
信仰:※ヒンドゥー教(ヴィシュヌ神)
※ヒンドゥー教三大神
シヴァ神(破壊を司り、ナンディン牛を乗り物とする)、ヴィシュヌ神(太陽の光り輝く状態を神格化した神で、怪鳥ガルーダを乗り物とする)、ブラフマー神(宇宙の創造神、言語の神)


!建物はアンコールワットの高さである65メートル以下と定められている。

・有名な話
①第一回廊に描かれているインド古代の叙事詩「ラーマヤナ」、「マハーバーラタ」
 「マハーバーラタ」は王家同士の戦闘の物語。5人の王が率いるパーンダヴァ軍と100人の従兄弟の軍、カウラヴァ軍の激戦の模様が描かれている。
 「ラーマヤナ」はラーマ王の美しい奥さんのシダ姫が魔王のラ―ヴァナ王(20本の腕と顔が10個)にさらわれ、奥さんを探しに出たラーマ王の戦いの話である。身の潔白を証明するために火へ飛び込んだとされ、2人は無事に帰ることができたとされている。
②乳海攪拌(ヒンドゥー教の天地創世神話)
ヴィシュヌ神の化身である大亀(クールマ)の背に乗った大マンダラ山を、両サイドから神々と阿修羅(神に対する悪神)が大蛇(ヴァ―スチ)の胴体を縄として引きあう、カンボジアの創世神話のこと。縄引きをしながら海中をかき回すといった攪拌が1000年以上も続いたとされている。

4.プレ・ループ(夕日)の様子

プレ・ループ(夕日)

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4-8.調査報告 「カンボジアの文化・歴史⑤ "シェムリアップ市内"」

2012/12/25(火)<6日目>

 オールドマーケットはシェムリアップ最大のマーケットであり、観光客だけでなく、現地の人々も食材調達のために足を運びます。オールドマーケットを訪れるのは8月以来、2回目です。8月と同様、たくさんの人でごった返していました。お店の前の道路にとめられたたくさんのバイクが印象的です。オールドマーケットには、クロマー、Tシャツ、かばん、せっけん、小物入れ、置物、絵画などの様々な御土産品が売られています。クロマーとは、カンボジアの伝統的な手織り布で、カンボジアの人々の生活に深く浸透している万能布のことを言います。このほかにも、生肉や果物などが売られています。どのお店の店員さんも、「こんにちは」「交渉」「さよなら」程度の日本語を話します。あるお店に、大変上手に日本語を話す店員さんがいました。「どこで日本語を学んだのですか?」と聞くと、「お客さんとお話をしているうちに日本語を覚えました。」と答えてくれました。ある店員さんとは、私たちのスタディツアーのこれからの日程や、帰国にかかる時間についてお話をしました。熱心に、そして楽しそうに日本語で会話をしてくれたので、感動しました。次はクメール語でお話できたらなと思います。
オールドマーケット  オールドマーケットのそばには、幅15メートルほどの川があり、釣りをする人や水遊びをする子どもを目にすることができます。川の水は茶色で底は見えません。その川の対岸にも大きなマーケットがあります。橋を渡ったところで、トゥクトゥクの運転手さん3~4人とお話をしました。皆さんとてもノリが良くて、日本まで1ドルで連れて行くと言っていました。ある運転手さんと、英語でお話をすることが出来ました。その方は、昼間に近くの小学校で教員として働き、午後はトゥクトゥクの運転手をしてお金を稼いでいるとのことでした。カンボジアの小学校は午前と午後の二部制を採用し、また教員の給料は非常に少なく、副業をする先生がいるということは知っていました。今回、実際にこのような方とお話するという、大変貴重な経験をすることが出来ました。

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4-9.調査報告 「カンボジアの文化・歴史⑥ "地雷博物館"」

2012/12/25(火)<6日目>

1.地雷博物館について
 シュムリアップからアンコールワットに向かう道にあるのがアキラ地雷博物館である。この博物館は、たくさんの人にカンボジアの地雷問題について理解してほしいという思いから、館長のアキ―・ラ―(通称アキラ)氏によって建てられた博物館である。

2.アキラ氏について
 アキラ氏は1973年にカンボジアで生まれた。1975年からクメール・ルージュがこの国を支配したため、アキラ氏も物心つく前に両親と引き離され、少年兵を育成するための「子どもグル―プ」で育てられるが、5歳のとき両親はクメール・ルージュの手によって殺されてしまう。その後も両親を殺したクメール・ルージュに育てられ、10歳になった時、少年兵として初めて実弾入りの銃(AK47 カラシニコフ銃)を持たされ、地雷の埋め方の訓練も受ける。13歳(1986年)になった時、この国に侵攻して来ていたベトナム軍との戦いの中でアキラ氏はベトナム軍に捕まり、それ以降ベトナム兵としてそれまで仲間だったクメール・ルージュと戦う事になる。16歳になった時、そのベトナム軍がカンボジアを去ったため、今度はベトナム軍と友軍だったカンボジア軍に入れられてクメール・ルージュと戦った。 20歳(1993年)になった時、カンボジアを平和にしようとUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が入って来て平和維持活動を始めた。そこでアキラ氏はそれを手伝って初めて地雷撤去活動を行う。その時「自分はこれまで戦争の中で、数多くの地雷を埋めて大勢の人を傷つけ苦しめてきた。これからはそれに対する償いとして、一生懸けて地雷撤去をやっていこう。この国を平和にするためにこれからの自分の一生を捧げよう」と決心する。その後はひたすら地雷を掘り続け、掘った地雷は自分で解体し、火薬を抜いたものを自宅に持ち帰っていた。そのかたわら資金を稼ぐ為に独学で英語を勉強し、UNTAC時代は英語の通訳と地雷処理の仕事で給料を貯めた。その後は日本語を勉強して遺跡ガイドの資格を取り、日本人向けのガイドをしてお金を稼ぐ。そして遂に26歳(1999年)になった時、それまで蓄えたお金を全て投じてシェムリアップから5、6キロの地に、最初の「アキラ地雷博物館」を建てたのである。そして、そこにそれまで自分が集めて来た地雷や不発弾、その他戦争に関わる物を展示し、来て下さるお客さんに地雷の恐さや戦争の悲惨さを訴えていったのである。翌27歳の時、ワットさん(19歳)と結婚し、その後二人三脚でこの博物館を運営していく。また、地雷撤去に行った村々には、手や足の無い地雷被害に遭った子供達や戦争で両親を失った子供達がたくさんいた。そうした子供達を引き取り、この博物館で育てるようにもなった。最初は10数人の子供達でスタートしたが、今では30人ほどの子供達を育てている。こうした活動を続けてきたある日、国からこの博物館の撤去移動が命じられる。止む無くこの博物館は閉鎖したが、何としても新しい博物館を建てたいと考えていた時、カナダ人のフォトジャーナリストであるリチャード氏が協力を申し出てくれ、カナダにNGO「CLMMRF」を作り、そこの資金協力の下、新しい現在の博物館が2007年にオープンする。また国が博物館の撤去移動を命じた時、併せてアキラ氏のそれまでの地雷撤去活動の禁止も命じてきた。それは、この国で地雷撤去や不発弾の処理中誤って亡くなったり、怪我をする人が大勢いた為、この国では地雷や不発弾の処理は国の正式なライセンス無しにはしてはいけないと言う法律を作ったからである。アキラ氏としてはこの仕事を一生懸けてやっていこうと強く決心していたので、何としても国のライセンスを取ろうとNGO「CSHD」を立ち上げ、そこでライセンスを取り、2008年からNGO「CSHD」として25人の隊員と共に地雷撤去活動を続けている。2009年、それまでアキラ氏を支え、自らの3人の子供とリリーフセンターの子供達の面倒を見てきた愛妻ワットさんを病で亡くす。それでも尚アキラ氏は己の信念を曲げることなく、この国を少しでも早く安全な国にしようと、人々が安心して暮らせる社会を作ろうと日夜奮闘を続けている。

3.実際に訪れて感じたこと
 博物館には日本人のボランティアスタッフが駐在しており、館内を日本語で案内してくださった。彼はアキラさんの活動に共感し、このような活動を行い、カンボジアを訪れる日本人に地雷や戦争の恐ろしさを伝えているとのことで、カンボジアの中で日本人が活躍していることに尊敬の気持ちを抱いた。地雷博物館の入り口付近には、世界各国が保有しているクラスター爆弾などが展示されており、とても衝撃を受けた。このような兵器を世界の軍事大国が今も所有していることは、戦争のない平和な世界の実現への妨害でありとても残念だと感じた。館内に入ると、まずアキラさんの人となりや活動について説明があり、アキラさんは戦争やカンボジア政府に翻弄されながらも強い思いをもって地雷撲滅にむけた活動を続けているとの説明を受けた。カンボジアでは年間に200~300人ほどの方が現在でも地雷の被害を受け、身体に障害を負っている現状があり、アキラさんの地雷撤去の活動は人々を危険から守るためにはとても必要なものであるのだと感じた。アキラさんの活動はカナダやアメリカ、日本など世界各国からの支持・支援を受け成り立っており、世界の国々はアキラさんの活動に共感し、長期的な視野で支援を続けていくことが求められているとともに、私自身も微力ながらもカンボジアを訪れた一人として心を寄せていくことが求められているではないかと感じた。また、地雷博物館の中には、地雷の被害を受けた子どもたちや親のいない子どもたちの生活を支援している孤児院があり、地雷の撤去だけでなく、多岐にわたる活動を行っているのだということが分かった。また、カンボジアの観光地の各地に地雷で手や足を失った人々が物乞いをしている様子が見られ、日本では見られないその光景に私はとても衝撃を受けた。このことを質問すると、カンボジアはまだ福祉制度などが整っていない現実があり、孤児への支援体制や障害者への手当などが十分でないため、このように物乞いや民間の施設に頼らざるを得ない状況にあるのだということが分かった。このことから、経済発展が進んだカンボジアにとって、今後は人々が安心して生活を営むことができるような福祉制度の確立が期待されるのではないかと感じた。今回アキラ地雷博物館を訪れたことで、地雷や戦争の怖さを改めて感じ、世界が一日も早く平和な世の中になってほしいと感じることができた。私は、日本でアキラさんの活動に少しでも協力していけたらと思った。

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4-10.調査報告 「伝統の森」

2012/12/26(水)<7日目>

伝統の森 ・カンボジアの内戦により失われかけた伝統の織物の復興
・自然環境の再生と人々の知恵の復活

 森本喜久男さんは京都に生まれ、友禅を学びました。その染物の知識を生かしタイで10年、カンボジアで20年染色の技術を復興させるため活躍しています。活動しはじめた当初は道も井戸も何もない土地であり、未だ内戦まっただ中でした。まず土地が安全かどうか、地雷撤去から活動をスタートしました。

このように職人たちを見つけだし“伝統の森再生計画”というプロジェクトの下、現在では150人程度が住む“村”になりました。

良いスキル
 お金で人を雇うのでなく、人間関係にあると考え伝統の森では“手から手へと継承する手のマニュアル”という手の記憶、化学でどうこうするものではない“スキル”を育んできました。

すべて人の手で作る
 原材料も森で採れるものを使い、作業は日本で言う江戸時代の流れを組んでいます。そのため自然で人間のリズムが刻み込まれた布(シルク)が出来上がります。

伝統は守るものではない
 守るという姿勢は後ろ向きであり、伝統であったとしても“ものづくり”であるからこそ常に新しいものを作り続けなければいけないと考えています。それは伝統を壊すことではなく、新しい伝統を作るということです。

伝統の森


 伝統の森は森本さんたちとカンボジア人の努力が詰め込まれた場所だと思います。開墾し、消えてしまった森を復活させ持続可能な環境を作り上げる。そして新しい伝統を作るという目標を掲げ“良い布”を作ることに尽力しています。そんな森本さんのお話はどれも示唆的で印象深い言葉が多くあります。例えば“分からない、というのは頭で考えている。難しく、かっこ良さを求めてしまっている。体で考えれば自然体”といった内容です。伝統の森では日本では体験することができない本来の人と自然との関係をほんの少しだけ体験することが出来ました。忘れてしまった何かがここにあるような気がしました。

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4-11.調査報告 「飯田学校」

2012/12/26(水)<7日目>s

 長野県飯田市のNPO法人「ふるさと南信州緑の基金」により建設されました。授業科目は国語(クメール語),算数,日本語などです。設備としては校庭と木造平屋の2つの教室しかありません。
 設備を増強したい思いはあるそうですが、管理人を置かない限り設備が盗まれてしまうため、現在はまだ必要最低限しか設置することができないそうです。そのため現在は責任者となる管理人の適任者を探しているそうです。
 飯田学校訪問時、簡単な日本語の授業を行いました。24名程度の子どもたちが来てくれました。教室としては30人前後の子どもが座れるぐらいのスペースだそうです。教室には日本の小学生からの手紙や折り紙が壁に飾られていました。
 東北学院大学の方々とともに自己紹介をすると、子どもたちも同じように日本語で名前や年齢、親の仕事のことを話してくれました。しっかりとした発音で話す子どもたちも多く驚かされました。10歳前後の子どもになるとひらがなが読める生徒たちが多く、文字当てゲーム(空欄に入る文字は何か)を教室と校庭で行いました。多くの子どもたちが意気揚々とゲームに参加してくれ、大いに盛り上がりました。

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5.感想

 今回のスタディツアーでは愛センターや伝統の森の子どもたちとの触れ合いにより多く得るものがありました。子どもたちの目は輝き、笑顔で迎え入れてくれました。それは愛センターや伝統の森の子どもたちだけでなく、道端で出会った子どもやその親たちも輝いた笑顔で人懐こく手を振ってくれました。“微笑みの国・タイ”と近隣国のことを称する場合がありますが、カンボジアもまた“微笑みの国”だと感じました。
 今回、愛センターの子どもたちに絵を描いてもらいました。その絵に込められた願いや想いをすぐ目の前で聞くことができ、子ども達や“絵”という存在が非常に近くなりました。それにより、カレンダーは“いかに子どもたちがまっすぐな思いで絵を描いてくれたか”を伝えていくかが重要になってくるように思います。
 このスタディツアーによって、芸術祭として今後どのようなあり方が必要なのかを考える機会になり良い体験が出来たと思っています。

阿部(4年)

 私は、2年前芸術祭の江川さんからカンボジアの話を聞き、大量虐殺の首謀者のポルポトは1990年まで生きており、今現在もポルポト政権の影響は残っているということに衝撃を受けた。つい最近起こったこの出来事を自分の目で見たいと思い、今回のカンボジアスタディツアーに参加した。参加した正直な感想として、カンボジアにある現実を受け入れられなかった。ツールスレンやキリングフィールドに行き、生で見ても、それが現実だったと受け入れることは本当に難しい。それくらい残酷で傷は深いということを感じた。
 また、「愛センター」に訪問し、子どもたちとふれ合った中で、カレンダーの候補となる絵を描いてもらったことがとても印象に残っている。彼らに、絵についてインタビューを行った際、とても真剣に家族の様子や将来の夢を語ってくれたことがとても印象に残っている。彼らの絵を是非、2014年版カレンダーに採用し、カンボジアの子どもや、「愛センター」の子どものことをもっと多くの人たちに伝えていきたいと思った。

堀江(4年)

 私は大学2年次の冬に「僕たちは世界を変えることができない」という映画をみてからカンボジアに行ってみたいとひそかに思っていました。今回、念願のカンボジアに行くことができ、カンボジアの歴史や文化を学び、愛センターでかわいい子どもたちと遊んだり、伝統の森でカンボジアの人々と交流を深めるなど、大学生の今しかできないとても充実した楽しい8日間を過ごすことができました。カンボジアの方々は、素敵な笑顔で私たちに接してくださり、カンボジアの方々のあたたかさにとても感動しました。私は4月から社会人として新たな一歩を踏み出しますが、カンボジアで経験した貴重な体験を生かし、カンボジアの人々に負けないくらいの素敵な笑顔で頑張っていきたいと思います。

須藤(4年)

 私がこのツアーで印象に残ったことは、アンコールワットや飲食店で小さな子供たちが夜遅くまで物売りをしていたことである。
 日本では在りえない光景であり、テレビや本でしか見たことがなかった私には、衝撃的だった。片言の日本語で買ってと必死に訴えてくる子供を見ると、この子のために買わなきゃという思いに駆られた。しかし、そこで買うことは子供たちの為にはならないということをガイドさんから教えていただいた。ここで収入を得ると、子供たちの親が学校へ行かせなくなり、教育が行き届かなくなるということだった。
 子供たちの今を考えると喜ぶ顔が見たいから買おうと思ってしまうが、将来を考えたとき、教育を受けられなかった子供たちがどう成長し、大人になっていくのかということが目に見えているので、私には買うことができなかった。
 実際にこのような子供たちと接して、子供だけではなく、親や周りの環境にも教育支援が必要であると実感した。

木暮(4年)

 今回のスタディツアーではカンボジアの2つの面が見えてきました。キリングフィールドやツールスレンではカンボジアの負の歴史を学び、当時のリアルな現状が見えてきました。しかしこれらを後世に伝えること、私達が学ぶことにとても意味があるように感じました。決して忘れてはならない経験でした。
 明るい面はカンボジアの人々、そのものです。病院に入院した経験もわたしにとってはプラスなハプニングです。入院日は12月25日クリスマスで、病院ではスタッフの皆さんにクリスマスカードを頂きました。心温まるサプライズでした。今回、多くの人と出会い、感謝の気持ちでいっぱいです。カンボジアで出会った方、愛センターの子どもたち、ガイドの皆さん、藍さん、学院大・福祉大の皆さんのおかげで素敵な8日間となりました。この経験を今後の人生でどう生かすかは模索中ですが、カンボジアという国に何かしらの形で関わっていきたいと思っています。

滝口(3年)

 私がこのスタディツアーを通して特に印象に残っているのは、子どもたちの笑顔です。愛センターでは子どもたちと遊びを通して交流し、ジェスチャーでこどもたちに伝えることで言葉の壁を越えた交流をすることができました。特に嬉しかったのは、最初は話しかけても遠くから見て距離を置いていた女の子が、みんなでシャボン玉をしていた時に寄ってきて、一緒にやりたいというアクションを起こしてくれたことです。とてもうれしそうな笑顔でシャボン玉をしている様子を見て、とても幸せな気持ちになりましたし、持ってきてよかったと心から思いました。
 カンボジアでは楽しいことだけではなく、負の歴史や物乞いをしている人々との出会いの中で厳しい現実も知り、心が痛みましたが、どんな環境にいようとも笑顔のあふれている子どもたち・人々からたくさんの元気と生きる力を学ぶことができました。今回学んだことは自分の人生を考えるよいきっかけにもなりました。参加できてよかったです。ありがとうございました。

岩崎(3年)

 東南アジアの地を踏むのは今回が2回目でした。相変わらずのプノンペンの匂い、今回も新鮮な気持ちでカンボジアを見ることができました。日本とカンボジアの生活水準の差は歴然としていました。2012年スタディツアーではカンボジアのスラムを視察することができました。「カンボジアのスラムに住む子どもたちはNGOの学校に通っています。しかし、子どもの親は〝教育〟の大切さを未だ分からないままです。」と、あるフリースクールの校長先生が言っていました。カンボジアには小学校に通うことができない子どももいます。〝教育〟は人間の可能性を最大に発揮するための、大変重要なものです。私たちから見れば、過酷な状況下に生きている子どもたち。しかし、子どもたちは皆、笑顔を絶やさず接しってくれました。そんな子どもたちの〝夢を叶えることが出来る環境〟作りに関わりたいという気持ちが、さらに強くなりました。

清野(3年)

 カンボジアは大虐殺があった国。カンボジアについて勉強していると暗いイメージがわいてきて、出発前は不安の方が大きかったです。しかし実際に行ってみると想像と違い、プノンペンやシェムリアップは立派な都会でした。信じられないような悲惨な歴史を勉強することもできました。このようなことは、絶対に繰り返してはいけないと強く思いました。
 この旅で一番印象に残っているのは、愛センターで子どもたちと一緒に絵を描いたことです。芸術祭で世界中から絵が送られてきますが、実際に絵を描いている子に会ったのは今回が初めてでした。描いてもらった絵を見ると、愛センターでの時間が思い出されます。この子たちの絵がカレンダーに使われてほしい!という、親のような気持ちも芽生えました。芸術祭としてこのような体験ができて本当によかったです。ありがとうございました。

佐藤(3年)

 私は、2012年は夏にベトナム、そして今回カンボジア訪問と一年に二か国を訪れることができました。これは、とても大きな事だと思っています。正直、カンボジアに行くまでベトナムのような国なのだろうと勝手に思っていました。でも当たり前に全く別の国でした。
 歴史的にもつながりが濃くて、隣国のこの二つの国。だけど、間には深い溝があって、考え方も街並みも全然違うのだと知りました。それが最初に感じたことでした。
 それから、カンボジアが抱えている負の歴史を肌で感じられたこと、貧困という現実、そこから生まれる問題を物乞いされて痛感したこと、芸術祭の支援先を訪問したことで自分たちのやっていることを改めて認識できたこと、伝統の森で過ごして、森本さんのお話をきいて、生きることと伝統について考え、たくさんのエネルギーをもらったこと。そして、たくさんの出会いがあって、わたしは本当にたくさんの目に見えないものを得た気がします。大げさではなくて本当に。それを形にしていくことが楽しみでしょうがありません。
 この旅に関わってくださったみなさんに感謝します。ありがとうございました。

石山(2年)

 今回のスタディツアーに参加し、カンボジアという今までの生活には全く関係のなかった国を通して多くのことを学び、様々な方と出会い、楽しいと思うことがたくさんありました。もし参加していなかったらカンボジアの歴史や世界遺産についても知りませんでした。知らなくても私の生活には何も支障がなかったと思います。しかし少しでも知ってしまったので目をそらすことができなくなりました。日本で生活をしていただけでは考えることができなかったと思われる経験もしました。それと同時にたくさんの方とコミュニケーションをとったりお話をしたりすることで、思考力の材料をたくさん得ることもできました。今まで知らなかったことを知ることは楽しくて、どんなことでも自分にとって有意義な経験になると改めて思いました。
 そのため一言で表すと「楽しかった」が今回のスタディツアーの感想です。尊敬できるみなさんと出会い、新しいことを学び、貴重な体験をすることができました。これからの課題や考えていきたいこともわかってきた気がします。このような機会を与えてくださったこと、今回関わりのあったみなさん、本当にありがとうございました。

樋口(1年)

カンボジアスタディツアー

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